2026.6.12(金) 朝
そのままを書いていく。飾らない言葉で書いていく。飾る言葉でもいい。そのままを書いていく。落ち着いた状態で呼吸をする。鼻から空氣が流れ込んで来て、這入って来た空氣が身体から出ていく。

生きている間、ずーっとこの動作を行っている。何も意識しなくても勝手に、自動的にこの動作が起こり続けるのは、生命維持するにしても、随分と不思議な感じがする。何もそこに意をしなくても自動操縦で動いてくれているのだから。

でもこれを真剣に考へると、変な感じもする。というのも、自分は何もしなくても、勝手にそれが動いているって不思議じゃないですか?自分で生きているつもりでも、実は、身体に勝手に私が生かされていて、人生の最期も身体が勝手に私を終わらせるわけで。

それじゃ、一体全体、私は自分で生きているのかを問うてみると、そうです、とは言い難い感じもあって。呼吸しましょう、と呼び掛けて応答しているのは自分以外の何かがそうさせていると考へると、それじゃ、その正体は何なのでしょうか。

専ら、このような考へに至ることが多くて、普通にあること、普通に起きていることに目が行くケースが増えました。私の人生が何時、最期を迎えるのか解りませんが、普通に生きていて普通に起こっていることをちょっと深く考へてみて、自分の中でその普通の正体が一つでも解明かせていったら、私にとっては素晴らしい人生だったと言えそうです。
何や高尚な理由や目的もありませんが、生きているという不思議が、池田晶子さんのせいで氣になってしようがないようになりました。と、池田さんのせいにしましたが、要は池田さんに多大な影響を受けた、ということです。おそらく私のように、池田晶子さんの本を読んで、私と同じような状態になった人も多いのではないでしょうか。

日常に潜む極く当たり前のことに少し立ち止まって、それを疑ってみると、日々のものたちが実に不思議で、それを一生をかけて考へられる素材で、人生を過ごすのに尽きること無い魅力を与えてくれます。
こういうことを考へて楽しむのは、少し変わった人に思はれる人もいる氣がします。というのも、こんなことを考へても一銭の得にもなりませんし、ただの自己満足で終わってしまうので、ヒマな人だけやればいいのかもしれません。でも、人生でやらなければならないことって本当にどれだけあるのでしょうね。

何やかんや理屈をつけて、やることがたくさん目の前にあるということにして、たぶんそれが普通のことなのでしょうし、勿論私もやることがたくさんあるので同じようなものですが、このやらなければならないことを沢山つくってしまうのは、何も無いことに耐えられないからなのだと思いますし、何も無いことで無価値に感じることに耐えられないからなのだと私は思ふのです。

でも、私たちはこの世界に生まれてきて、何か壮大な目的も意味も無く、ただ物体としてこの世界に生み落とされただけで、生命が維持できれば、人生のやることは既に達成されているわけにも思へます。

ただ、人には考える知性が備わっているのか、そのため生きているだけでは満足できない状態のようで、心理学者のマズローさんが言ったように、自己実現に向かって生きていく生き物であると。そう考へると、今私がこの意味の無い文章をただただ書いていることも、私にとっては意味の有る自己実現であり、積極肯定ができそうです。然しあれですね、誰かが言ったことで安心する自分がいるのも、本当はちょっと納得行ってなくて、他人が示した論でなく、自分の中で積極肯定できる考へを持ちたいとも、どこかで思ふところがあります。

岡村拓朗