己の命を自由に表現する
2026.8.25(火)夜
書くという行為を通して自分の考えや想いを言葉にしている。講師やコーチとして職業人として口から出す言葉と、この日誌のように岡村拓朗個人として書く言葉では、その言葉の選び方は違うように感じている。
話す言葉は1分間に300〜350文字程度表現できるそうだが、書き言葉は出来て約70文字程度のようで、1/4〜1/5程度の表現量になるわけだ。
それも言葉を選んで書いていくとその約70文字は更に減ることも想定される。つまり、書き言葉は話すよりも丁寧に一つずつを選んで記す行為として捉えることもできる。
一文字一文字書いている間に次の言葉が降りてきて、一マス一マスを埋めていく。その工程はまるで何かの物体を作り上げるが如く、言葉を通して、私なりに何かの建造物を建立しているともいえる。建立しているものは私の精神と宇宙であり、ひとりひとりが放つ宇宙世界を表している気もする。
己の命を自由に表現できる時
ところで、人はどのような時の中にいると己の命を自由に表現できるのだろうか。
私は専ら、研修という場を推し進め、取り扱う主題に係る情報を受講者の方たちに、スライドと声と演習によって情報提供と、気付きの場をつくっている。
そこでいつも思うことがある、それは学習の場の中で一人一人が命の自由と学習の愉しさを感じてもらうこと、これを私は大切な信念として、登壇する際は取り扱っている。
命の自由とは、ひとりひとりが想い想いに己の事を不自由なく伸び伸びと発信できることであり、互いの想いと考えが受容され、また、交換され、未知が拓かれることを指している。
命の自由を伸び伸びと表現する
何故この信念を持っているかというと、私が自分の命の自由を伸び伸びと表現したいと希っているからである。 人が生命を与えられた意味など無い。しかし、無意味で虚無な人生だからこそ、そこに我々は意味を見出したくなる。考えるという行為を持つようになったからこそ、生の無意味に意味を付与し、ほんの一瞬の命に対して肯定感情を持って生きていこうとする。
その無意味の人生に対する意味付け行為の本質は、己の命を自由に表現することであろう。喜怒哀楽を含め、身体を使った表現、はたまた書くという行為や話すという表現行為を通して、私たちは己の生の意味付与に命を使う。そこには己の命を認める相手がいて、相手に受容されることで意味が認知につながる。
他者との交流が未知を拓く
私が提供する研修という場は、自分一人だけでなく他人と交流しながら知を深めていってもらっている。ひとりで考える時間もあれば、他人と対話することもある。また、他人と成果物を共に創り上げることもある。
その場では、ひとりひとり摑んだもの、見えたもの、分からないものを分かちあうことで、新しい視点獲得が生まれる。勿論、独りで学習していても、多くの視点を獲得できるが、己の見えている世界など狭小なもので、視点獲得も一定の枠の範囲でしか物を見ていない。
しかし、他人との交流があれば、己が見えていない新しい世界を見ることが可能になる。外国旅行に行くようなものだ。知らない文化、風土に入っていくようなものだ。その時に、異国が閉鎖的であると新しい世界に出会う可能性は低くなる。それでは勿体無い、だからこそ私はひとりひとりが生の自由を、命の自由を思いっきり表現してほしいと思っている。
自分の世界なぞ、この宇宙の中で極く一部であり、周りには未だ見たことのない広く美しい宇宙が拡がっていることに気付いてほしいと希っているし、未知なる世界に興奮してほしいとさえ希っている。
私たちは、一人ひとりが小宇宙を形成しており、この宇宙全体を司っている。一人ひとりの宇宙が輝けば輝くほど、この世界の躍動は大きく強くなるだろう。
私にとっては研修という一個の宇宙の中で、受講者お一人おひとりが、己が宇宙を輝かせてほしいと思っている。そう思って仕事を講師という役に徹している。
岡村拓朗



「命の自由は、不自由なく発信できることで実感するのか。それとも、そこに他者からの受容があって初めて実感できるのか」という問いが生まれました。
そしてそれ以前に、「不自由なく伸び伸びと」という状態は、言葉で表す以上に難しいもののようにも感じます。
自由とは、不自由がない状態を指すのだろうか。むしろ私たちは、不自由を知るからこそ、自由を自由として感じることができるのではないか。
そう考えると、不自由さの中にこそ自由が生まれるようにも思えました。
コメントいただき、また、日誌をお読みいただきありがとうございます。大変うれしいです。
いただいたお声に私なりの考えを記してみますね。まずは元々、私たちが本然的に直覚している解があります。その解を構成する要素毎が止揚して、その解は成り立っています。つまり、解の要素は複数あれど、それは1つであった。
これが、いただいたお声に対して思う、私の考えです。
またお声を教えてもらえれば幸いです。