2026.8.26(水)夜

全てが消えて無くなる前に、何を遺したいだろうか。お金だろうか、若さだろうか、美しさだろうか、建物だろうか、子孫だろうか。

何を遺すのも自由だけれども、私は言葉を遺したい。

愛する家族に、愛する友人に、愛する動物に、愛する場所に、愛を言葉で表現してこの世界から消えていきたいと思う。

でも、その遺したい言葉が思ったように表現できないとしたら、それは悔しい。

ほんとうに顕わしたい想いが言葉として語れないとしたら、悔しさの中で生を終えていく気がして仕方無い。言葉は勝手気儘に溢れ出てくるものではなく、言葉を仕入れていかないと、想いの丈を出せない。

偉大な精神を継いでいく

自分が不思議と惹かれる作家や文筆家、詩や散文を見て、読んで、一つずつ心に残る言葉が増えていく。先人が遺してくれた偉大な精神としての言葉に出逢い、惚れて、その言葉を自分のものとしてお借りし、そして偉大な精神をリレーして繋いでいく。

繋いだ先に、もしかしたら誰かがその精神を継いでいく。継がれなくても、私たちの意識の深層に眠る巨大な海に私たちの精神としての言葉は貯蔵されていく。それを井筒俊彦は言語アラヤ識と表していた。 

言葉は死なずに遺りつづける。私たちの物体としての肉体には有効期限があり、誰もがこの世に生まれた瞬間から死に向かって一直線に生きていく。色んなものを獲得し、享受し、失い、無くし、それでも生はただ死に向かって進んでいく。持ちうる物の多くは消えてなくなる。それは見える実体の物体もあれば、話される言葉も当てはまる。

それでも悠久なる時の中で、文字は、言葉は遺りつづけている。

想像してみてほしい。すごいことではないか。

私たちが生きる今この瞬間の時代を超えて、過去の歴史と対話できるという奇跡。ちがう時代の中で生きてきた人たちを知り、また、彼らの精神と語れるということ。

そこには必ず言葉と文字という物が在ったのだ。ここに浪漫を感じずに、一体全体何に心が動くか。 

消えていくもの、遺りつづけるもの

私たちは消えても精神は遺りつづける。あなたは何を遺したいだろうか。

私には文字を、言葉を、偉大な精神を、次の世界なのか次の人間なのか分からないが、ただ遺したい。 生きるための活動をしながらも、この一回生の中で、魂が動く活動にも時を与えていきたい。

はて、遺したいと希っている私とは一体だれなのだろうか。何が私なのだろうか。何が私にこの希いを授けたのだろうか。

私という存在を超えて、与えられた希いを信じて、文学を、言葉を今日も探していきたい。 

岡村拓朗