2026.9.5(土)

自分の内界を言葉にすることは難しい。解が既に存在するものを編集するのでなく、解が存在していたとしても未知な感覚、感情、希いを言葉として編んでいく時、それを己だけでなくて他人に伝わる水準で言葉を選んで書いていく時、私にとっては苦しくもあり、辛くもあり、それでいて、面白くもある。

大人の愉しいは子供の楽しいと異なり、苦しいものを克服し達成したときに愉しみが到来する、そのように小林秀雄が言っていたが、私にとっては「書く」という行為が正にそれを表しているように感じている。

この「書く」という行為を、いや、自分の内界を言葉に、自分の奥底で思っていた内側の世界を言葉にするという行為に着手したのは、この3〜4年程度である。

過去にも自分の感じる、また、想うことを書いていたこともあるが、深層の自己開示は避けてきたし、深層の自己開示をすることで他人に土足で踏みにじられることに恐怖も感じていた。頼んでもいないのに説教をされることは意に介さない。私は、ただ、内界の交流をしたいだけなのだ。

この日誌もお読みいただければお分かりになると思うが、何かのハウツーを提示している訳でなく、岡村拓朗という一個の物体が抱いている内側の世界を描いているだけである。恐れや希い、祈りをただ書いているだけである。

この世界に無限大に存在する解の中で、其れぞれが抱く解、見ている解を対話したいだけである。故に、ハウツーや具体的な解決策や具体例を望む人には何の面白みもないだろうし、無価値に思えるだろう。

そのようなことであれば貴方の人生の貴重な時間をいただいて悪かったが、私が想定している読者ではないので読み終えていただきたい。言われなくても、そのように為さると思うが。 

さて、何だか面白味も無い文章になってしまい失礼した。

この日誌がどのように使われていくのか、また、私がどのような想いでこの日誌を書いているかを記していたら、それこそ私が説教臭くなってしまった。

しかし、求めぬことを書くことで、私がこの日誌で実現したいことを描けたため、意に介さぬことを記したことは大きな価値があった、私にとって。

恐れよりも、真理の解明へ

ちなみにだが、このような自分が違和を抱くことも反論として開示することは、私は避けてきた。とかく、無用の下らぬ意見を多く言われることに恐れていたからだ。どれだけ無用の声をただの事として受け取ろうとしても、感情がそれを許してくれなかった。頭では解っていても、気持は肯定を抱けなかった。そのような自分の限界もあり、己の違和の公の提示は避けてきた。

ある程度、概ね納得の妥結ラインで物事を進められるのなら、人生の貴重な時の浪費にならない。時を有効に使いたい、そういう考えがあり、衝突を避けてきた。 

しかしだ、私の心を掴んで放さない、小林秀雄も池田晶子も、己の違和を表しているではないか。恐れよりも、真理の解明に向かい、己の考えを他人に伝わるように書いているではないか。真険に真理を探求し、生を全うしているではないか。己よりも真理の解明に全精力をなげうっているではないか!

そのような勇気ある姿を見て、私もその姿になってみたいと思うようになった。そう在りたいと、希うようになった。 

一人ひとりが人生を思いっきり生きるために

私は職業として研修の講師や組織のコンサルタント、リーダーやマネージャー、役員などのコーチとして日々を過ごしている。どの役割を通しても、根底にあるのは、その人の真理の発見、その人の恐れの解放、その人の希いの起立。これらを奥底で握りながら、お一人おひとりに向き合っている。真険に語ることを求める人もいれば、今はその状況でない人もいる。

人それぞれタイミングがある。それぞれのタイミングに合わせて、しかるべき表現が為される。今ではない人が私と向き合う必要もなく、その時が来たら、対話できればよいと思っている。一人ひとりが人生を思いっきり生きるのに対して、私は役に立ちたいと思っている。どうせ我々は消えてしまうのだから、それだからこそ、今日という最後の日になるかもしれない時を精一杯生きる、そう捉えて生を全うしてほしい。

そのような希いを持って、私は仕事をしている。生を送っている。 

この日誌は公開してから、まだ数ヶ月のひよっこだ。それでも、公開してから私の物を書く水準は小さくも一歩ずつ垂直を志向して、行ったり来たりしながら伸びている。

あなたには、今日の日誌はどう伝わっているだろうか。あなたにはどのような感情や考えが、この日誌を通して立ち上がっただろうか。 

応答を求める私がいる。

岡村拓朗