2026.7.20(月)朝

智慧とは一体何だろうか。

辞書を引けば誰でも意味などすぐに知ることが出来るが、自分の言葉になった感覚は弱い。

何度も使うことで、その言葉が与えられた外形的な意味は頭に記録され、いつしか其れが恰も自分の言葉のように使う時が来る。

然し、本当に自分の言葉として確信的に其の言葉の意味を握っているかというと、其れは其れで甚だ疑問だ。ただ、こういうケースはどうだろうか。

自分の中で捉えている曰く言い難く、名状し難いものがあり、一定程度言葉に出来ていたものがあり、たまたま読んでいた書物の中に其の名状し難いものが言葉として編まれていた姿を見た時、成る程、あのうすきみわるく胸の奥につっかえていた、あの物は其の様に表現するのかと、目が見開くことになった時の感動と感覚と衝撃。

この世界に残された巨匠の天才的で繊細で凄みのある遺物。土を掘り起こして発見した昔の遺構。考古学者の興奮と乗っ取られた当人の頭。

智慧に出会うとは、そういう類の物であり、そのような重量が感じられる体験が私が捉える智の感覚である。

と、だいぶ息巻いて長く駄文を書いてしまったが、昨日読み始めた書物に、私が智慧の感覚を掴んだものがあり、其の感動を記しておきたいと思った訳である。

其の一節を少し長くなるが紹介させていただきたい。

「埴谷 まあ、僕が自己解説しますと、われわれが白紙に書くということは、あったことの記憶からはじまる。つまり、歴史ですね。それが個人の内面の記録へ移り、自己反省をしたり、懐疑したり、目に見えぬところのあったこと、あり得ることを書くことになると、歴史は次第に小説へ移ってゆくわけですね。

 白紙の大半は、この大きな意味の記録で埋められると僕はおもう。ところで、記録型のほかに、魂の渇望型という白紙の埋め方があって、これは、自分が欲している人間の在り方、存在の在り方をたとえ架空のかたちでもつくってみようとするのですね。但し、勝手な空想ではだめで現実にいまある事物を素材にしてつくらねばならない。

これを比喩的に言えば、神が現在の素材を与えられて、お前の好きな宇宙をつくってみろ、と言われたときと魂の渇望型の作者が白紙に向き合ったときは同じだと僕は考えているのです。」

(系譜なき難解さ 小説家と批評家の対話 埴谷雄高)

私は日々、日誌を書いている。文量は日によって違うが原稿用紙二〜五枚程度を毎朝書いている。
書くという行為により多くの時間を与えたいが、現在私が生計を立てている業に時間を費やす為、書くという行いへの投資は大変に少ない状況である。

然し日誌に書くことによって私の外面と内面の記録が表され、私の歴史が其処に残り、形になっていく。そして文章の後半に進むに従って私の歴史は、私の体験と見ている事物を通して架空のかたちで文章として顕われてくる。

この感覚を薄らと持っていたことを埴谷の述懐によって教えられ、また、氣附かされたのだ。

私が白紙に書く一連の行為の過程を体系的に認識出来、岡村拓朗が記録型の他に、魂の渇望を言葉にしてみたいという試みに氣附くことが出来た訳である。

文章を編むということは、私にとっては自分が欲している人間の在り方や存在の在り方を架空の形でも顕してみたい行いであり、また、そのような文を書いてもよいのだと埴谷によって教えられた。

そして、実はこのようなことを思っているということで、日々日誌を書き続ける中で、自分という存在の文章を超えていかない感覚があり、自分を超えたものを書いてみたい、という欲求がうっすらと立ち上がっていた。

或る意味、堂々巡りの省察と内省から脱け出てみたいという次の段階に向けた成長欲求に感じる。その大いなるヒントを埴谷から智慧として頂戴した訳である。

智慧とはそのような大いなる氣付きと光を与えてくれる人類の遺産であり、神々が与えてくれた恩恵なのではないだろうか。

私は智慧をそのように感得した訳である。

岡村拓朗