2026.7.15(水)朝

それっぽく虚飾して等身大以上の姿を演じている人に何か違和感を感じるのは、それは私にも同じ処があるから、その人の何処か頑張ってしまっている状態に気付くのだろう。

自分の中に在る物は、既に知っているからこそ他人や事物の中に気付けるが、自らに無い物を相手に見つけるのは難しい。

そのようなことが今朝、この日誌の書き出しで降りてきたのは、昨晩寝る前に池田晶子と埴谷雄高の対談本と若松英輔の小林秀雄と柳宗悦の茶道論集を読みながら、彼等の精神に近附こうとするものの、理解が及ばないことが多く、其処に近附くには至難の道に見えたと同時に彼等の様な文体に私が似せようと努力していることに気付いたことを想い出したからである。

勿論、憧れる精神を読んでいるのだから、文体が似てくることは当然であろうし、埴谷雄高の精神のリレーを私も参加したいと希う欲求もあるからこそ、それっぽく虚飾して己以上の水準に向けて挑戦していることも努力している姿といえる。

ただ、その状態が現実の当人との乖離が大きい場合、許容が遠ざかる。そのように私を含めて他人様の其の様な姿を見ている自分がいる。

置かれた場所で花を咲かせなさい、という言葉があるが、一定程度当たっていて、状態によっては一定程度外れていると思うのは、何に向かって生きるのかを人生で定義できた場合は不要なことを捨てて其の対象に集注できるがゆえに身を置く場所の重要性と自身の意志では動かすことが出来ない宿命づいたものに気付き、置かれた場所の有難さを自覚し、此処で生きていく肚詰りが生まれ、置かれた場所で花を咲かせることが出来るのだと思う。

然し、未だ自身の生きる目的を見出せない時は多くの未知に挑み続けることが必死で、置かれた場所の変更は短期的に継続して生まれる。

少なくとも私の人生はそうだった。青い鳥を探し続けていた時期もあった。今でもあるが、私なりに人生を、命を使う対象が、未知の発見と精神のリレーに集注することを決めてからは、青い鳥の解像度が上がり、何でも全てが青い鳥にはならなくなったことは若い未熟な自分との違いである。

そういえば人生の午後に突入してから、美容や美術や文芸に対して一気に関心の矛先が向き始めたのだが、それは死の足音が人生の前半よりも明確に聴こえるようになってきたことが影響し、永遠と不滅に対する欲求がこれまでの人生の中で頂点に達してきている。

若さの獲得や他者依存からの脱却や、自己の拡大を欲する向きは、有限なる命の残存時間に対する真摯で必死な或る意味で健全で憐れな跪きなのだろう。

永遠と不滅に対する己の欲求は、己だけでなく、全生命の求めることなのではないだろうか。それは愚者が欲するものなのだろうか。

永遠と不滅。

今後、掘り下げて書いていきたいと思う。

それにしても今日の曇天は何処か重たい。

岡村拓朗