2026.6.25(木)朝

一定のストレスがあるから人は成長し続けられる。

一定のストレスは悪でもなく善でもない。

ただの一現象であるため、低度のストレスと強度のストレス以外は。

然し、困ったことに私自身は強度のストレスであるということを自覚できていなかったことを、昨晩のセミナー受講を通して発見した。一体何時から強度のストレスを自覚できていなかったのだろうか。

社会人になってから、蕁麻疹やメンタル不全になった位、強度のストレスはそれなりに感じながら生きてきた。独立後も、単一で仕事をつくってきた為、収入が安定するまでは強いストレスを日々感じていた。

一方で組織に居た頃の人間関係によるストレスは激減し、一人親方の様に仕事をしてきた。仕事面で言うならば、何度もやって慣れている研修もあれば、意図的につくりあげた未経験の研修もあり、自身の能力が劣化しないよう、研修以外についてもコーチングやチーム向けのコーチングで一定のチャレンジをしてきた。

チーム向けに実施するシステムコーチングという技法は、実に観るものが多く、資格取得中は、クライアントに提供するセッションに緊張したことを覚えている。これは強いストレスになっていたようだ。

研修では初めて行く企業で関係性が無い処では、また、管理職をはじめ経営層に対するもので、やはりこれもそれなりの緊張と不安がある。

強いストレスになっているかと問はれると、それはイエスか疑問で、夜は良く眠れるし、そのような研修に行く時や登壇中に身体が異変に襲われることもないので、思い当たる節が無い。一体何を高いストレスとするかが、私にとって其の認識の壁になるのだろうか。

一定の水準を与えられないと自覚出来ないということになり、何と悲劇なことか、という面もあれば、新しい学びになるとも言えるが、せめて自身の身体や氣持ちに発生しているストレス位は自覚出来ていたいものだ。

もしかしたら、社会人生活、世界一周、独立というステップを踏んで、ストレスに慣れて、それが当たり前のものと化しているのかもしれない。何か新しいステージに進もうとしている最中で、この当たり前となったものたちの中で次のステージに跨るものは解明しておきたい。

今年は、自己を客観視し、できうる限り正しく自己認識できるようになりたいと年初に願った。数種のアセスメントを通して、不思議な己を見つけたのだが、その結果には何処か無理して装ってきた己が存在するように感じ、己に対して違和感を得た。

身体の張りが解放され、ゆるやかにもしなやかに、優しくも弱く、両極性が交差しあう状態を己の中心に据えたいと三月に願った。その意図のおかげで、多面的に自分を表すことが以前より楽に出来るようになってきたが、その中心を支える背骨は克己が強く走っているため、異なる背骨のエキスを見つけていきたいと、そう思っている。

学習棄却といってアンラーニングという概念があるが、今正に私自身がアンラーニングを取組んでいるのだろう。私、岡村拓朗という一個の人間の変化を通して、人は何処に向かおうとするのか、人はどこまで開花するのか、身を以て証明することで、人類に与えられた未知を一つでも拓き、この世界に貢献したい。

不思議と、寂滅という言葉が降りてきた。

大義に生きる何かを、今、少し触れられたのかもしれない。

岡村拓朗