2026.7.1(水)朝  

全体の一部として関わるか、全体として関わるか、どちらも一長一短があるが、熱く生きるなら全体として生きるという道があるこ とに昨日氣附かされた。

そしてこの氣附くという言葉だが、今読んでいる若松英輔さんの 「小林秀雄 美しい花」の中でハッとさせられる一文があった。 

『芸術家にとって「氣がつく」とは能動的 な行為ではない。徹底的に受動的な営為であ る。人が、氣が付くのではない。彼のなかに ある古い記憶が、氣が付かないままでいるこ とを許さないのである。』  

この一文を読んで、昨日の体験を通して、 全体で関わろうという熱があることに氣附かされたことは過去の私の中にある古い記憶の夏の熱が引っ張り出されてきたという感覚であった。

私が氣附いたのではなく、私の中に既に在った物が私という箱を揺さぶった、ということであろう。

能率的に生きようとする程、本当に大切な事を忘れてしまうのではないだろうか。最短最速で生きようとすればする程、体の疼きを忘れてしまうのではなかろうか。

効果的、当人にとっての本質とは一体何なのだろうか。

能率、効率、効果、本質 。

これらの要素をブレンドさせていくことを身体が求めている。

全てが滑らかで収まりが良いと、何処にも干渉することなく、静かに漂白された無味乾燥な置物と化していく。

一方で、何処か収まりが悪く、角がある色付きの物は、必死に自分の生を尖らせ、それはまるで雛鳥が親鳥に餌を求めるが如く、燃え立てる生を表す。

人の生にも春夏秋冬があり、その季節は日々の中で移ろっている。私にとっては長い秋冬を 終えて、春に這入る中で茹る様な暑さと熱さ を取り戻す季に突入し始めた感覚が生まれた。

己の生命エネルギーを信じる処に全精力を 掛けて突き進まんとする時、人は真に自由という代物を与えられるのではないだろうか 。

貴方にとっての真の自由は一体何だろうか。 

簡単に結実しない処だからこそ、我々の生命は燃え、燃焼した生の回転と前進が現実に表はれる。

未来は何時でも己自身で明るく出来る。

信己。

岡村拓朗