非効率
2026.6.17(水)朝
今までの当たり前を崩すことを最近取組はじめている。
如何に効率的に物事を進めていくのかを重視していたことが、最近の変化を通して氣附くことが増えた。研修登壇をしていると、大量の情報を詰め込んで、受講者の方々に渡すことが多かったが、そこには息をすることを忘れてしまうくらいの時間設計で推し進めることが多く、それが私の当たり前だった。
そのように育ってきたことも影響していると思うが、当たり前のその状態が普通だったので、何も悪いものだと思っていなかった。効率としては最高な進行だったと思う。
然し、本当にその効率が、狙った処に行き着いているか?と問ふてみると、人によってはyesだろうし、人によってはnoになるはずで、片隅に存在している受講者を見逃がしてしまっても、時間設計を言い訳に、見ているようでいないふりをしてきたかもしれない。そのような時間設計だから仕方無いと。
最近、とあるセミナーに参加するようになったのだが、それは自己をマネジメントすることを教えてくれるセミナーで、二年前にも参加を検討していたが、その際はピンと来ず、見送った。今回、人生の大きな変化を感じることが増え、恐らくは人生の行先の、いや、生き方の変化を望むようになり、その事情も相俟って、そのセミナーに参加することにした。
自覚しているのは中年の危機という代物の真最中にいる、ということで、憧れよりも日々のことに強く集中してきた生活の仕方に疑問を感じるようになり、その疑問を解消するべく、自己の本質的な変化に向き合い始めた。
20代の時には世界一周の放浪を二年半強やり、30代半ばでは会社を辞めて独立起業、40代では人との繋がりを作り始めて関係性を意図して生きるようになった。どれも岡村拓朗という一個の物体が、其れまでの当人を作り変える上で、本質的な変化であったのだが、そのどれもが、当人にとっては勢いと熱量の中で取組んできた節があり、じっくりと呼吸をしながら取組めていたことは概して弱かった。
年代を考えると仕様が無い氣もするが、現実で実際的に活用できることに焦点を当てた活動が岡村拓朗の中心にあった。今もその傾向は強く、如何に日々の中に採り入れるかを工夫しているつもりだが、もう少し言うと、その行為は儲かるか否かで仕事に直結させて考えてきたことが中心にあった。
純粋な、といっても何を純粋と捉えるかに依るが、とはいえ幼少期に持つ純粋さを措定して考えてみるが、ただただ営利に関係の無い学びたいから学ぶ、やりたいからやってみるの精神は、あるようで弱かったように思うのである。特に、独立して、雇われない生き方に移行してからは、その精神は弱まったように思う。
良い悪いの話をしたいのではなく、当人の生き方にはその精神状態を希求していたわけであるし、生活の安定を考えると、真っ当に生きてきた証である。ただ、その精神状態もどこかで臨界点に達し、死を想うと異なる生き方が存在することに氣附き始めたわけだ。身体がそれを求め始めたわけだ。合理的で能率的な生き方から、非合理で矛盾を愛せるようになりたいと希うようになってきているのだ。
人生は何時終わるのかは誰にも解らないが、誰しもが死に向って生きていることはあまねく全ての人に共通することで、その死を感じないように見ないようにして、日々の諸々のことを採り行い、生きている。(お坊さんを除くが。)
しかし、私たちは死という代物を抱えて生きていることは真であるからこそ、死という存在に対し向き合うことで、どのような自分で在りたく、また、どのような生を送りたいかを把握することができる。
大切なものは全て消え去るが、残りもする。岡村拓朗という一個の存在が消え去る前に、文学に魂を吹き込み、この世界に残したい。
せめて己は一体何なのかが見えるところまで達してみたい。天が何かを見えるようになりたい。そのような想いを絶えず握って生きていたい。今日も美しい空と光と水が、鳥のさえずりが私を包む。夢は既に今ここにあった。脱落。
岡村拓朗



