2026年8月13日(木)朝

言っただけで何の責任も持てないが、当人の自由にするしかないと思っている、という考えが適切な言い方に思える。

何故にそう考えるかというと、私たちは平等に死ぬことだけが与えられている。お金持ちも貧乏な人もきれいな人も怖い人も、年寄りも赤ちゃんも、だれしもが生まれた時点で等しく与えられたものが死である。

そして、何の因果か分からぬが、この地球の一部の地域の一部の人間によって、この地球に生を生み落とされた命。求めてもいなかったが、生を与えられた命。死に向かってしか生きることのできない命。という、ただの事実。

暗い気持になりたいわけではなく、ただ、事実として確実に分かっている生と死の入口を書いたのは、私たち一人一人は限られた時の中で生きているということを申したかった訳である。

何時どのタイミングで命が終わるのかは、だれにも分からない。このあとすぐかもしれないし、今晩、明日、寝ている間かもしれない。それはだれにも分からない。けど、その時はいつか来ることをだれもが知っている。

死んだ後はどうなるのかが分からないため何も言及できないし、死という事象も私たちは体験できないので、これも何も言及できない。ただ、死が確実に訪れることだけは分かっている。

命を使う大義

では、その死に向かっている私たちは、限られた時の中で生きている私たちは、一体全体なにを一番大切にしたいだろうか。

お金か?スマホゲームか?ドラマか?仕事か?睡眠か?人によって色んな答えがあると思うが、私にとっては、考えるという行為、未知を考えるという行為、未知を見つめつづける行為、日常の一つ一つから真理を探求する行為、それが私にとって命を使う大義であるのが現状の気持ち。

だれかに強制されて、この行為をやっている訳ではなく、よくわからないのだけれども、不思議と、そう考えてしまう。

私の意志と言いたい気持もあるけれど、その私の意志の所在が一向に見つからないままなので、また、私という状態も一向に定義できない状態にいるため、私以外のなにかが、生と死と未知について考えるよう、岡村拓朗という肉体を使っているように思えている。

何の因果で池田晶子と小林秀雄と出逢ってしまったのか、と思うときもあるが、彼らが死しても、存在としての言葉がこの世に遺り、彼らの精神としての言葉と触れ合うことができ、その世界に未知を感じて、彼らの存在に日々触れあっている。

自分が伝えたいことを伝えたい

人生の半分程度と目される年齢になり、自分が伝えたいことを伝えたい。そう思うことが増えた。
常識や社会的規範を疑いながらも、抗えぬ日常の集積を通して、常識の大切さを伝えたい、と思うことが増えた。

胸の内に眠る想いをこの世界にあらわしていきたいと思うようになった。今この瞬間しか生まれないのだから、精一杯に命を燃やしつくす大切さを日々の中で伝えたくなっている。

余計なお世話かもしれない。

黙って生きてくれ、という声もどこかにあるだろう。

それでも、命を大切に扱うことを伝えたいという想いがある。

下賤な命根性と池田晶子に言われそうだが、
命の大切さを考えることを私は説きたい。

時の使い方は己の大切にしたいことを大切にすることで充実したものになる。
その大切にするものを他人の物差で測ってほしくない。

我欲を突き抜けた先に、自他共に生きる道があると私は信じてやまない。そのためには、我欲を先ずは思いっきりに満たすことが先決される。

己の命の使い方を考える

しかし、己が本当にやりたいことをやる、というのは存外むずかしいものだ。

貴方は本当にやりたいことを自覚しているだろうか?

やりたいことではなく、本当にやりたいことを自覚しているだろうか?

せっかくの命である。己の命の使い方、命の運び方、命に宿ったものを考えるのは、死の間際に己に納得する道であり、この命の終わりゆく際に後悔なく死せるものになるはずだ。

そのとき、己の生に対し、己の命に対し、積極的な姿勢で納得できる言葉を持てていたのなら、望まずにも不思議と生きてきた己の物体に対して一定の解が見つかるはずだ。

死を想うことで私たちは、もっと真剣に生を全うできる。

そう信じている。そう信じている。

岡村拓朗