作文と文才と梅雨
2026.6.18(木) 朝
初めに書くことを設けると一気に筆が進まなくなることが解り、そのまま筆を止めずに出ているものを言葉にする。この方法を採り入れたのは小林秀雄の読書についてという本を読んだ時に教えてもらった手法だった。私の記憶が正しければだが。
仕事では、お題があるものを文章にすることは、量を積めば一定のパターンがあるので概ね多くの人が書けるようになる。
しかし、何もお題が無い状況で何かを書こうと思うと、正解を教えられてきた私には苦難だった。文章のはじめから筆が止まってしまうのだ。その状況に出くわすと、自分の文才の無さに心底いやになったのだが、文才も何も、自由に文章を書いてきた経験が非常に少なく、書けなくても仕様が無いのである。
恐らく中学の頃から自分の好きなように物を書くことは一気に無くなり、点数を採るための作文にすり替わった記憶がある。塾で学んだことも高い点数を採るための攻略法であり、豊かな文章を書く学びはなかった。といって、それらを否定するつもりもないのだが、どうやら、それ以降、社会に順応するための作文を、相手が求める作文を私はやってきたと今気付かされている。
小学5〜6年生の時、ミステリー小説を書いたことがある。それは母がその類のドラマと本が好きで、隣で一緒に見ていた私も母のようにミステリーものにのめり、本を読むようになった。当時の少年には面白かったのであろう、自分でミステリーを書いた位なのだから。あの作文は、私のはじめての想像力を駆使したものだった。書いて家族に見せてあたたかい言葉をもらったことを覚えている。
次に文才というと、これも身内での話になるが、世界一周中に各国から記念に絵葉書を母に送った。私が見ている世界を届けたい、一国ずつの想い出を残したい、そのような想いから絵葉書を恐らく40枚程度は送った。その絵葉書に書いた文を叔母が読んでくれて、「良い文章を書くわね」と言ってくれたことを母から聞いた。それも私にとって、自由に文を書く上で大変な励みになった。
そして今、万年筆と原稿用紙を仲間にして日々想い巡らせていることを書くようになった。この行いを初めてから3〜4年経つ。はじめのうちは毎日書くことはなく、気が向いた時に書いていた。連続して書くようになったのは、外側に発信しはじめてからだ。自分の文章がインターネットを通して、自分のホームページで積まれていくことに喜びを覚えた。
もっと多くの考えや想いを発してみたくなった。もっと自分の素朴な声を発してみたくなった。そこには応援してくださる素晴らしい編集者の存在があり、その方のおかげでこの原稿用紙への執筆も大変に前向きになった。感謝しかない。
そういえばこの執筆を進めていくなかで、大きな発見になったのは文才があろうがなかろうが、何度も書き続けると、少しずつ作文に対してアレルギーが無くなり、どちらかというと愉しくなっていくことに気付いた。
書きたいように書けばいい。だれかに買ってもらうとか儲けることからスタートしておらず、己の中にあるものをただただ書くという行為のため、気が楽なのだ。それが創作する上で重大なのであろう。
もっと自由に、軽やかに、表現することに取組みたい。文才という言葉にとらわれていたのは私だった。
まだまだ社会の、経済の目線から強い縛りを己に課しているようだ。もっと枠組みを越えていきたい。枠組を下に置きたい。そう思う文才脱落の日誌になった。梅雨。
岡村拓朗


