2026.9.27(日)朝 

質の良い物を使う。これだけで人生の質が変わることを実感するようになった。高級品だから良い、という短絡的な発想に辿り着きたくない気持ちがあるものの、高級品、つまり高い金額のものには、それだけのこだわりと人と時間がかけられていることが多い。神は細部に宿る、とは、著名な建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉だが、一見単純に見える其の形姿の一つ一つの部分には、その形姿を成り立たせようとした人間の想いや思考や技術や苦悩が詰まっているように、美しい其の形姿から私はそのように受け取っている。

私の仕事の細部は何処に宿るのか

私の仕事で言うなら、その神の細部は何処に宿るのだろうか。そも私の仕事は研修やコーチングといった形の無いものを扱っており、言葉や表情をはじめ声質やまとう服、対面研修やコーチングなら其の場の空間を考慮し、新しい情報ないしは、その人の内面に眠っていた既知の情報に気付いていただくことで、一つの事象をより微細に、より多角的に、より俯瞰して見える視点の獲得と、それによって現実世界の当人の行動や発言が変わる支援をしている。

正論や筋の通った理解を並び立てることが相手にとって効果的になることもあれば、氣持や寄り添いながら共感を軸にしたほうが効果的なこともあるが、双方に言えることは人それぞれの固有のものを捉え、その当人に一番適した話の進め方が、最も本質が浸み込んでいく道であることを、研修、コーチング、就労・採用支援の仕事経験をとおして約1万人以上の人を見てきて掴んだ。

また、相手に接する時の私自身の表情や話し方、在り方が、相手に想像以上の影響を与えていくことも、対人支援を業にすることで体感経験してきた。対人支援業という性質上、人それぞれが持つタイプや強み、恐れや希いなど、より微細に人の本質が見えるようになる為、人間の心理や複数のアセスメントを学び、少しずつ人間というものを理解できるようになってきた。

それでも、どう考えても分からない、生きるとはどういうことなのか、死ぬとは何なのか、意味とは何なのか、今私がここにいるというのはどういうことなのか、能力開発以前に生まれて持参してきた人の才能とは何なのか、数多の環境の中で何故人は其処にいるのか、など、人そのもの以前の不思議さにも、意が向かうようになった。

元々、不思議なものや怖いものなど、目に見えないけれど何かが其処にあるようなものに興味は強かった。哲学や神秘的なもの、宗教や精神的なものも好きで、学生時代や社会に出て時間があるときは好んで調べていた。独立後多忙になってから、その好きなことを制限する期間もあったが、或る程度人間を科学的に理解する段階が満たされてから、改めて、人という、いや生死という対象が私に飛び込んで来て、哲学書を読むことが増えた。

見えないものを「言葉」で表す

しかし哲学書は何を言っているのかが皆目解らぬものが多く、哲学エッセイとして、もう少し読みやすいものとして池田晶子に辿り着き、そして池田からの小林秀雄、井筒俊彦を読むようになった。表現の難解さこそあれど、三名共、未知なるものを「言葉」という方法で微細に表し、生きていることの不思議や見えていることの世界の拡張をしてくれた。見えないものを言葉という方法で表そうとするその姿勢に、心の構えに、私もこの三名のように生きたいと希うようになった。

それ以降だろうか、日々使う言葉に対して以前よりも格段に注意して扱うようになり、また、抽象的であり難解な言葉を好んで読むようになった。また、書くという行為の難しさ、内界にあるものの言語化、内省し続けて摑めない向こうからやって来る不思議な感覚物の言語化の困難に直面し、それでもその壁を乗り越えてみたいという欲求があることにも氣付くようになった。

そして、「言葉」を丁寧に扱うほど研修やコーチング、コンサルティングの力も上がっていくことに氣付き、また、クライアントの話も以前より、より精確に見えることが増えていった。 

言葉とコトバに宿る神

神が細部に宿るなら、それは私の仕事の何処を指すのか、といった問いからのことまで来たが、どうやら、その解の一つが「言葉」にあることが見えてきた。また、「言葉」にならない言葉として、井筒が言う「コトバ」も同じように注意して扱っていることが見えてきた。 

一つの作品を微細に、全体に、また、一としてその作品を成り立たせているのは、作者当人の身体と精神と魂であり、神は細部に宿る、その神を顕現させているのは、作者当人である。作者当人の言葉とコトバが精緻に編まれた時、神の解像度は高くなり、アニミズムとしての日本の魂も顕現できるのではないだろうか。 

岡村拓朗