2026.8.14(金)朝 

何度も同じことを書いている。それだけ、そのテーマは深さがある、ということだろう。一方で、何度も同じことを考えつづけていると、自分の考えが深まっていない気にもなる。そういう経験はないだろうか。 

私の場合、人生、生死、命、存在、時、これらが考えるテーマになっていて、何度も何度も手を動かしては、出現する。

哲学は死を考える学問という言葉は有名だが、何故人は生きて、何故人は死ぬのか、何故人は考えてしまうのか、これらに解は無いからこそ、無いものに対して解を出してみたいと欲するのも、不思議と「なぜ?」を考えてしまう人間の性なのでしょう。

反復によって世界はつくられる

そうか、書いていて今気付いたのだけど、反復は人間の常識ではないか。

朝、太陽が昇り、夜には月が顔を出す。食べたら外に出す、飲んだら外に出す。
寝たら起きる。伸びたら切る。始まれば終わり、終われば始まる。
100%になったら、0%になり、また100%に戻る。

全ては反復が成す運動の一環。反復によってこの世界は、歴史は形成されているのではないか?
問うて解を出す、この連続によって水平と垂直は交互に行き来し、次第に次元が増えて拡がっていく。 

至極単純だけど反復と連続の交換はこの世界の真理であることに気付いて、私はいますごく興奮しているのだが、なんて当たり前のことに歓びを得ているのか貴方は、という声も聞こえそうだ。
しかし、この当たり前の往還運動の連続が我々人類の文化文明を発達してきたと思うと、宇宙の法則に触れられた気がして、私なりの発見に興奮しないわけにはいかない。

私は子供の頃に母の影響で、ピアノとヴァイオリンをやっていた。それなりに時間をかけてやってきたのだが、どちらも同じことを何度も何度も繰り返しながら上達していった。
特に、音楽には入口から出口まで規則的な流れがあり、その物語を奏でつづける。私の少ない音楽経験では、音楽の一つの法則をそのように受け止めている。これも反復ではないか。

変化があるようで、変化は無い

変化があるようで変化は無く、変化は無いようで変化はある。 たぶん、この往還運動が一つの真理だとして、本当に往還運動だけに支配されているのなら、それ以外の可能性にも目を向けてみたい。

私が影響を受けている方の一人である、埴谷雄高は、「自同律の不快」と名付けていた、それだ。同じことの繰り返しに対して不快を得る、と埴谷は言った。私の執筆で何度も何度も同じテーマを行き来して、其の着地が往還運動になってしまう結論は一瞬歓喜に似たのだけど、同じ解しか得られない不毛に見える繰り返しに嫌気が差すという事象。

そして、この運動そのものも自同律になっており、一つの解を得ても満足できないこの私という存在に再度立ち戻る自同律。 同じことの繰り返しが連綿とつづいているのなら、私たち人類は、というより人間は本当の意味で成長し、発達しているのだろうか?

便宜的に与えられた時の概念を一旦放棄して横に置いてみよう。同じことの繰り返ししか起きていないのなら、時間という考え自体が意味を為さなくなるのではないか。

自同律を超えた先へ

時なんて代物は存在しなくて、ただ、同じことが何度も繰り返される。呪術廻戦の五条悟の領域展開に近いものがある。呪術廻戦は売れる訳だ、真理の解明と諦めが織りまざっていたのではないか。もしこの精神の運動の繰り返しによって、自同律を突破できるのならば、そこに浪漫を感じずにはいられない。私が生涯かけて実行していきたいテーマになりうる。

先哲に学び、先哲を疑い、先哲の肩を借りて、人類の峠を超えてみたい。

何かその先に信じられないほどの景色が拡がっていることを夢見て。今日も自同律の罠に目を見開いていたい。 

岡村拓朗