解放と情熱
2026.7.5(日)朝
静寂をもとめるようになったのはここ最近のことで、それまではにぎやかな事や場を求めていた。
すごく好きだったカフェ通いも無くなり、自宅で過ごす時間が最高の休らぎと静寂を得る道なのだと氣附いた。
静寂は時間を止めてくれる。その存在を忘れさせてくれる。ただひたすらに、宇宙の中にいる自分を思い起こさせ、また、自分が宇宙であるということを感じさせてくれる。
静寂は怖い存在でもある。静寂は何も言ってくれない。何も語ってくれない。ただ在る。ここに在る。そして、そこに私もいる。静寂と私が一体と成り、私と私をとりかこむ物達全てと一つになる。私は全体で、全体は私であることを氣附かせてくれる。
静寂が教えてくれるのは見るという行為だ。自分の中を見る。目の前にある物を見る。解釈を除き、直接物を見ることは大変に難しい。
私たちは獲得してきた概念と経験によって、見ている物を観念で決め、意思決定している。其れは、認知負荷を下げる理由もあるのだろう、私はその専門でないので個人の考へではある。
ただ、獲得してきた概念や経験で解ってきたものを外す努力をし、其処にあるそのものの物を見ようとする時、如何に概念と経験が邪魔するかに氣附くだろう。
昨日は久しぶりに自分の安息地に戻ってきた感覚があった。私が私でいて大丈夫な処に居て、自然と肩の力が抜け、いや、考へなく足を動かすことが出来た。無論、考へて動いているのは当然で、その量や回数が圧倒的に少ない状態で動けていたということだ。
美しい物に多く出会い、触れ、ときめく心が私を動かしていた。帰路につくのが残念で名残惜しい、そのような感情にも襲われた。恋しているようだ。同時に、恋もあるが、解放がその地にあり、軽やかに生きる私を手に入れたく、離れ難い感情があったのが適正な気がしている。
自宅の観葉植物は新たな芽を咲かせ、出張から戻ると既にその芽はムクムクと頭角を表し、強く燃ゆる一個として立ち上がっていた。
人の心の中にも、すくすくと立ち上がる物があり、その存在に氣附いていくことが、自分という物体を知り、掴み、活かしていく方法なのだろう。静寂は出張の疲れと夢の発見を改めて思い起こさせてくれた。
今年も半分が過ぎ、残り半分となった。
一つ一つの時を精一杯生き、躍動する生を感じていたい。また新たな挑戦、いや、枠越えをしていきたい。何歳になっても、直観が教えてくれることに耳を傾け、理で頭を無理に統制せず、降りてくる直観と立ち上がる想いを大切にしていきたい。
貴方にはこの日誌を読んで、何が起きているだろうか。
安寧。
岡村拓朗


