道具とは何なのだろうか
2026.6.20(土)朝
筆が進む上で自分の書きたいことが立ち上がることもあれば、初めから書きたいことがある時もある。
それでもこの入口は己が己でない状態の無の時に身体が反応する流れで突き進んでいくことに、自己が気付いていない新たな発見がある。
今朝、志について考えていた。日誌という言葉を思い出したからだ。先日書いた日誌に、日誌という言葉に思いを馳せたのだが、今の私には大いなる志はあるのだろうか、と自問したのだ。岡村拓朗という一個の存在を形成してきた過去の出来事に、続いてきた血筋に、今、不思議にも取り組んでいる成人に対する教育に、この一個の生が何なのかを問おうとしてきた。
一方で、小林秀雄も池田晶子も、もし今の私を見たなら、もっと直観に生きろと一言してくれるかもしれない、そのように思う私がいる。己に対しての執着が解放されるとき、ただ在るものをそのまま表現したくなる時が来る。
私は今、黒とゴールドの万年筆を使っている。パイロット社のカスタムというシリーズで、中細という太さの万年筆である。これを使い始めて、未だ半年過ぎた程度のように記憶している。この万年筆を使い始めて、世の中には、良い道具があることに気付かされた。
万年筆というのは字を書く時に、滑らかに走っていくだけでなく、腕の力がペンよりも大変に楽なのだ。丸みを帯びた、ぽってりとしたフォルムは、何処かに可愛らしさもあり、威厳だけでなく、愛嬌さえも感じられる。
この原稿用紙に書く物は、万年筆である。いつもは出てこないものが表れ、訪れる。良い道具には、そのような魔力が備わっているように思える。
ちなみに、道具という言葉も、この万年筆を通して、はじめて考えに至るようになった。道に具わると書いて、道具。
道が何かと問うと、それは大変に難しい問題だが、目には見えない連綿と続く流れと大いなる宇宙が誕生させた一個の生が道である。その不可思議な生の上に、ただ同居し続ける道。切っても切り離せぬもの、それが道。その道に具わっている物が道具なのであろう。
今、私の道の上には本と万年筆と原稿用紙、そして腕時計と電子機器、着心地の良い服と観葉植物、品を上げてくれる鞄や靴、大切な人々、それらが時と場に合わせて、私に呼応しながら息衝いている。
私の上に、いや、共に在る道。
その道に、良い物が具わることが出来れば、それは大変に私の生を活かしてくれる。運命が更に好転する。
私はその命を活発にしたい。その時に、今この瞬間、私の考え、想いを形に表させてくれる万年筆は、私の命を躍動させ、また、心地良い安心を与える。
私は今、道と共に在る。命題を見出したい。
岡村拓朗


