2026.8.15(土)朝 

人生で使える時間を考えると、実に限られている。人は同時に、二つのことや三つのこともやれない。今この瞬間に投下できるのはたった一つだけだ。無論、なにかをやりながら他のことをやれる。

しかし、それだと結局、自分の意は四方八方に散らばり、結局の処、何も得られないどころか、何も記憶できないままに終わる。故に、一つのことに専心する時間というのが人生に大変に大切なのだということだ。

何かに専心して生きるには、かぎられた時間を使うために、多くのいろんなものを捨取選択しないといけない。あれもこれも手に入れられる訳ではない。

峻拒して選択を選択する必要がある、ということだと思う。何にどれくらいの時間を使うかは、人それぞれの価値観や大義によって変わる。良い悪いではない。限られた生をどうしたいか、という至極単純な話だ。 

自分が求めるもの、心が求めるもの

私の場合は、会社員を辞めて独立して生きることを選んだ。会社員と違うのは、仕事の量と質を自在に調整できることだが、生活を支えていく水準の段階では、先ずは生活が維持できるレベルの仕事確保が必須だった。とやかく理屈を述べる前に、生活を支えることに専心した。

一定期間が経過し、生活維持できる状態になった後、自分が求めるもの、心が求めるものを希求するようになった。私の場合で言うと、哲学や文学を学問したいという欲求が出た。
考えるということの追求と直覚するということの体験を増やしたいと希うようになった。

そのように希ったところで、実の生活時間はどうなっているかというと際限なく仕事に追われ、自分では処理することが厳しくなるほどの量を抱えるようになっていった。自分以外の人に仕事を手伝ってもらっていても、それでも学問するための時間は少なく、限られた時間の捻出が困難であることが続いている。

何に命を投げうっていきたいか

結局、自分が何に命を投げうっていきたいかが信じきれていない故に引き起こす愚かな状態といえる。生活を支えること、稼ぐことを第一義にしてきた末路である。

しかし人はおもしろいもので、追いつめられた時に、己が大切にしたいことが見えてくるのではないだろうか。自分の肚の内がわかること、自分が本当にやりたいこと、自分が本当に大切にしたいことが、切羽詰まると見えてくるように思える。
何かをやりながら専心したいことに手をつけられない私としては、峻拒するという行為を意図的に選択することが次の段階に進む上で要請されている気がしてならない。

偉大な精神への憧れは私の原動力となっている、そこに向かうことが私の生を十二分に活かす道である。 

貴方は何を峻拒し、何を選択して生きていきたいだろうか。

生きるという有限であり、かつ、無限に思える死までの時間に対して、己の生と命が燃える契機に代えて。

岡村拓朗