2026.9.15(火)朝 

等身大で生きる、ということを最近考えた。仏教用語としての等身という言葉が語源であるようで、概ね現在多くの人が想像して使う意味と同じようだ。自分の身の丈に合った状態で在りたい、と考えるようになったのだが、自分の身の丈とはいったい何だろうか。

身体の大きさに合ったものを着る、年齢に応和して生きる、年齢に応和した言葉で生きる等、思いつくものはあるが、実齢と賢さが応じる状態でありたい、と、そう考えている自分がいた。年齢はただの数、という表現もあるが、或る意味で当たっていて或る意味では異なる。それらの境界を線引きするのが思考の深さと広さにあるように考える。

視点が増えるほど、思考は自在になる

日々生きるうえで出会う数多くの事象に対して、そのものの存在や成り立ち、形状や歴史を調べ、考え、それらが持つ意味と影響を想像することで、それまで持っていなかった視点を獲得することが出来る。

自分に無かった視点が増えることで、其処から見える景色に立つことができ、その時にその視点を踏まえて、より善い状態で物を考え、表現することができる。

己の固まった物の見方が解除され、意図的に自在に空間を移動できるようになる。もちろん、己の頭の中での空間移動が自在に実現できるという意味だ。この空間移動の自在さは、当然、どれほどに物を考えてきたかによって、その物量は上下する。

この空間視点量の保持によって、年齢は実齢に応じるものにもなる一方で、逆もまた然りだ。たとえば、日々会うたった一人の人のことを貴方はどれほど知っているだろうか。たった一人のその人の何を知っているだろうか。

自分という不可知な存在

それ以前に、あなたはあなた自身の何を知っているだろうか。あなたという人の類型や特性をどれほど知っているだろうか。あなたが持つ信念や価値観、パターン化された感情の発露や思考の傾向をどれほど自覚しているだろうか。あなたが持つ物、買う物の選択理由の根源を自覚しているだろうか。

そも自分が生きているということに対して、どれほど自覚があるだろうか。自分という物体を一枚ずつ剥いでいったとして、たった一人の自分だけを考えるだけで、人というのは真に不可知な生物であることに氣附くはずだ。

そして、それは他の人や他のことにも当てはまり、森羅万象が不可知なものと映るはずだ。その場所に立ったとき、何も解っていない自分、無知な自分に氣附くはずだ。

無知を知り、等身大の己へ

この氣附きが年齢に応和して実齢を積み重ねる一歩になる。無知であるを知る、または氣附くことで、自分の心の構えも謙虚になり、それと同時に森羅万象に対して関心が芽生え、積極主体な構えと反転する。その大前提になることが無知の自覚である、ということである。

 等身大で生きるということは、無知を自覚するということは、掘れるところまで掘り続け、辿り着いた先に無限大の宇宙が拡がり、また、自分自身が宇宙であるという真実を発見し、そこから初めて、等身大としての己であれるのではないだろうか。 

岡村拓朗