2026.9.13(日)

倉敷に来た。仕事の移動の途中で訪れた。目的は大原美術館、ここは日本で最初の西洋美術中心の私立美術館ということで、モネの「睡蓮」やピカソ、マティス、ゴーギャン、エル・グレコといった近代西洋美術の有名作品が数多く展示されていた。日本美術では岸田劉生の「童女舞姿」や草間彌生の大原美術館の展示作品リストでは、草間彌生の「No. RED. Z. A.」をはじめ教科書やどこかで見たことのある作品があった。

もちろん、それらは見ていて吸い込まれるようなすごさがあったのだが、私には、ポール・シニャックの「オーヴェルシーの運河」とアンリ・ル・シダネルの「夕暮の小卓」という二点が特に目にとまった。我を忘れる美しい絵がそこにあり、 夢を描く力になる、そのような影響を受けた。

とはいえ、言ってみれば2点とも、ただの一つの風景である。異国に行けば何処かで出会える可能性のある一つの風景である。しかし、たぶんだが、そういうことではないのだと思う。風景に潜む魅力を二人の画家は、その風景の魅力に魅きこまれて画にしたのではなかろうか。そして、私も、その二人の画家が魅かれたように、その二つの世界に魅きこまれた。彼等の精神に魅きこまれた。 

風景の中で、役割を脱ぐ

私は20代の時に、40ヶ国を放浪した。バックパッカーというバック一つを背負って、バスと電車と船を基本として移動し、各地の風景を見てきた。あらゆる景色にはそれぞれの表情があって、車窓を眺めながら各地をまわった。外を見ているだけで、いやされていく自分が居て、私にとって各地の風景を見ることはそのままの自分、つまり役割を演じなくていい自分の精神そのものに戻れていた。

今も、仕事で各地のお客様先に伺う際、それぞれの風景を見るときに、子供のような自分に戻れることに何度も気付く。私にとって各地の風景を見るというのは、脱皮した状態をつくる上で、大変に重要な行いになっている。

そこに、絵が加わった。この2年くらいではないだろうか。有名な絵を見に行き、有名な寺社仏閣に行くようになった。このような動きになったのは、大きくは、小林秀雄と、懇意にしてくださっている先輩講師の方の影響が強い。お二人とも、私の心を動かすスイッチをお持ちで、有難い出会いに深く感謝している。 

圧倒的な表現に触れ、自分の天与を知る

ここで少し考えてみたいのだが、何故私は美術館に行っているのだろうか。むろん、刺激を受けるために行っている。刺激というのは、人が出来る、人が持っている力を見て、それに触れて感動というより、驚きを得たい、無心になりたい、という欲求があることに気付く。

また、表現するという方法と訴えに触れたい。そして、私が専心している生や死や存在、これらについて、精神について考える刺激が欲しい。そのように希っていることに気付くし、画は描けないが、文章を通して、私も表現をしていきたい。その一助にしたいと、美術館に行く目的があるようだ。

人には各々、異なる力を、異なる才を天から与えられている。自分の天与を存分に活かす、そこには圧倒的な表現に命を注いだものに触れることが一つの方法なのかもしれない。多くの出会いを意図して創ることで、自分の天与を確信して生きていく。 

考え続けること、探し続けることに一生終わりはないのだろう。 

岡村拓朗