人はどれだけ自分を見えているのだろうか

こんにちは、岡村拓朗です。
自分のことほど、自分が見えないのではないか。
日頃、私は講師やコンサルタント、コーチとして、
企業のお客様に関わりながら仕事をしています。
人材育成や組織開発、リーダーシップ開発の現場に立っていると、
ふと、思うことがあります。
見えているつもりのズレ
コーチとしてクライアントの方と話しているとき
言葉では理解しているはずなのに
どこかでその本質が掴めていない
そのように感じる瞬間があります。
たとえば、
クライアントさんが組織目標に対して自身が挑戦したいことを語ってくれている時、
たくさんの言葉で話してくれるものの、
その語る内容はどこか他人事で、
そのときの表情や声質は、挑戦というよりも諦観に近い状態を表している。
もちろん、その場では会話は成立している。
でも、何かがすり抜けているような感覚が残る。
その違和感に触れたとき
クライアントの方は自身の本当の状態が見えていないのではないか
そう感じるときがあります。
自分を外側から見るということ
鏡がなければ、自分の顔を見ることはできません。
それと同じように、私たちは存外、自分のことが見えていないのではないでしょうか。
それは私自身も同じです。
そのようなとき、心と体をその場にそっと置いて
いったん自分という存在から少し離れてみる。
上から眺めるように、自分を見てみる。
ある意味、外側から自分を見つめるような感覚です。
そこにいる自分は、何を考えているのか。
何を思い、何に悩んでいるのか。
そのように自分を外側に置いて眺めてみると
ふと、不思議な感覚になることがあります。
そうして見ていると
自分が日々、多くの言葉を内側でつぶやきながら生きていることに気づきます。
それは単なる感想のときもあれば
自分に問いを投げかけているときもあります。
いずれにしても、それらはすべて自分の内側で起きている会話です。
その会話のあり方によって
そこにいる自分は軽やかにもなれば、苦しくもなる。
自分では冷静に話しているつもりでも
あとから振り返ると、どこか防御していたように感じることがあります。
本当は相手に協力してほしいことを伝えたいのに、
その願いが話されるよりも
相手への批判や非難が先に出てしまう。
あるいは、自分のほうができていることを語り
自分を守ることが先行してしまう。
そのようなお話を聴くことも多いのですが、
当のクライアントさんは自身のその状態に気づいていない方も多くおられます。
ずいぶんと、その内側のやり取りに影響を受けながら生きているのだと感じます。
同時に、こうも思うのです。
そうやって必死に
何を守ろうとしているのか。
何に向かおうとしているのか。
何を求めているのか。
それを捉えようとしている姿そのものに
一個の人間が生きている様子が、確かにあるのだと。
そこに、どこかで可愛らしさを感じることもあれば
もう少し軽やかに生きられるのではないか、と思うこともあります。
私たちはどこまで見えているのか
私たちは、自分のことを
どこまで見えていると言えるのでしょうか。
見えていると思っているものの中に
まだ見えていないものがあるとしたら。
それに、どのように気づいていくことができるのか。
そのことを、もう少し見ていきたいと思っています。
引き続きこの日誌では、少し長いスパンで、
「見えているけれど実は見えていないもの」の見方や、
人の成長や発達、組織の葛藤や発達に関することに焦点を当てながら、
人文科学と経営科学を織り交ぜて言葉を綴っていきたいと思っています。
私の日誌に少しでも興味や関心を持ってくださったなら、
今後もちょっと覗きに来てもらえたらうれしいです。
そして、あなたが受け取ったことも、ぜひ教えていただけたらうれしいです。
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